「老いを恐れる」考
少し前のことですが、3月21日付の朝日新聞の投書欄に、10代の若者2名の投書がのりました。
タイトルは
「『キレる高齢者』どう対する」
「お年寄り なぜ病院に集まる」
これだけで内容わかりますね(≖ ‿ ≖)
すると当該者の皆さんから反響があったようで約1か月後の4月26日、4名の方の意見(というか反論)が。
タイトルは
「つらいんです 高齢になると」
「苦労した私たちを大目に見て」
「自分失う恐怖との闘いなのです」
「迫り来る『死』が根底にある」
これも内容わかりますね(≖ ‿ ≖)(≖ ‿ ≖)
これを読んで思ったこと。
私は、キレてる高齢者が増えてるなあ、と実感することはあまりないけれど、ただ、歳を重ねるということと「成熟した人間になる」ということはかならずしも比例しないのではないか、とは思います。
例えば、上記の高齢者の方の投稿は、皆、老人になったことを嘆き、悲観する内容です(だからこの人達が成熟してない、とは言わないけど・・・(ノ_・。))。
生まれて、成長して、老いて、死ぬ。
この流れは、長短あれど殆どの生物が辿る道です。
いえば、生き物は生まれた瞬間から、死に向かって進んでいくのですから。
じゃあ、死に向かう過程で私達は何をどう学ぶのか。
それはやっぱり、「善き死に方」を人生の経験の中で学ぶのではないでしょうか。
いつもいつも、そのことを考えているということはなくても、この命はいつか終わるのであって、それから逃れることは出来ないということを、潜在的に、心の奥底に置いておかないといけないのではないでしょうか。
そして、その潜在的な覚悟が表面化することが「老いる」ということだと私は思うのですけれど。
「老いる」という言葉をそう定義づけるなら、私は早く早く老いたいと思う。
死に向かうことは恐怖ではなく、「善き死に方」を実行する、文字通り一生に一度のチャンスと捉えてその日を迎えたいと思う。
・・・こんな風に思う私はまだまだ若いのでしょうか?
本当に「老人」といわれる年齢になったら、こんな考えは机上の空論だったと苦々しく思うのでしょうか?
高齢になるとつらい、とか、死への恐怖が、とか当事者が仰るということは、やっぱり、老いたことを嘆き、悲観しているということだし、それだけ、この世から去ることを怖れているということですね・・・
実際、歳をとることの哀しさや、死への恐怖は、当の本人にしか分からないのかもしれない。
だとしても。
老いることは、今まで纏っていた服が古びてあちこち綻びていくことであり、死ぬことは、その服を脱ぎ捨てることである。
と、いつも心の奥底で思っておきたいと思います。
そして、歳を重ねていくことで、そのことを折に触れ思い出す作業を忘れないようにしようと。
何よりも、善く生きることが、善き死へと直結しているのだと。
善き死のために生きることは、とっても前向きな生き方だと思うのですが・・・実践は難しいですねえ。
まずは目の前の自分の役割をきちんと果たすこと!を心に刻みたいと思います。
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