映画「ベニスに死す」感想

今年で最後の「午前十時の映画祭」にて。やっとやってくれました!

巨匠ルキノ・ビスコンティの「山猫」と並ぶ代表作で、ノーベル賞作家トーマス・マンの同名小説を原作に、作曲家グスタフの美少年への心酔と老いの苦しみを描いた。「地獄に堕ちた勇者ども」に続いて撮られた、ドイツ3部作の2作目にあたる。療養のためベネチアにやってきたドイツの老作曲家アシェンバッハは、ホテルで少年タジオを見かける。一目で少年の美しさの虜になり、彼の姿を見つけるだけで喜びを感じ始める。全編に流れるのは、アッシェンバッハのモデルになったマーラーの「交響曲第3、5番」。2011年には製作40周年を記念し、ニュープリント版でリバイバル上映された。(映画.comより)


!!ネタバレ注意!!

ヴィスコンティ監督作品は、若い頃「山猫」を特集上映で観ました。
アラン・ドロンはアイパッチ姿でもカッコいいなあ!と思ったことと、とにかく長くて薄暗くて鈍重で、でも主演のバート・ランカスターのどっしりした魅力で、最後には感動したことを覚えています。

今回の「ベニスに死す」は以前ビデオで観ましたが、劇場では初めてで、あの美しいタジオ(ビョルン・アンドレセン)が大画面で観れる!という理由で観に行ったのです。が…!

以前観た時とは全く違う感想を抱きました…これ、歳を重ねるごとに見どころが変わる映画だと思います。

主人公が友人と芸術の議論をするシーンがあって、以前観た時には「何だかめんどくさい事言い合ってるよ…」ぐらいに思ってたんだけど、今観ると響く…ヾ(。>﹏<。)ノ

アッシェンバッハは「美」とは創造されるものである、と主張する。芸術家は道徳的であることによって、真理・英知に近づくことが可能である、と。
それに対して、アルフレードは、「美」は自然に発生するものだ、と反論する。そしてそれは、社会の規範からはずれ享楽的であるところから生まれるのだ、と言い放つ。

まあ、努力でいけるところへの限界と、生まれたままの姿と感性でいけるところへの限界の差、みたいなことかな。

超絶的な美少年・タジオとの出会いによって、アッシェンバッハは、激しく動揺して、ずっと彼を追い続ける…このあたり、2人の会話はおろか、他の台詞も殆どなくて、ただひたすらタジオの美しい姿と、それをうろうろと追いかけるアッシェンバッハの表情だけで話が進んでいきます。
説明は何もないのに、アッシェンバッハがどんどん想いを募らせていく描写が見事です。

タジオがあまりにも美しい少年なので、アッシェンバッハの風貌がみすぼらしく見えて、何とも切なくなるんだけど、でも演じてるのはダーク・ボガートですからね!他の作品ではめっちゃ男前なんで、あえてそういう風に演じてるんだろうけど。
もう髪型(後頭部の薄さ)とか口ひげとかね…老いって残酷…
そしてダーク・ボガートすごい…!


今回数年ぶりに観て
「美しいものに魅かれ、目を離せず、その美に囚われたまま死んでいくのはある意味1番幸せなことなのでは?」と強く思いました。
タジオはの美はあくまでもメタファーで、アッシェンバッハは彼に、自分の努力では到達できなかった真理と英知を見たのだと思います。


バガヴァッド・ギーター 第8章 5~6節

死の時が来て肉体を離れるとき

わたしだけを憶念するものは誰でも

まっすぐにわたしの所に来る

ゆめゆめこのことを疑うな

誰でも肉体を脱ぎ捨てるとき

心で憶念している状態に必ず移るのだ

クンティーの息子よ これが自然の法則ー

常に思っていることが死時に心に浮かぶ


ヴェーダの智慧に当てはめると、アッシェンバッハはタジオを見つめながら死んでいったので、きっと来世はタジオのような「美」を湛えた者に生まれ変われるんじゃないでしょうか。というかそう思わないとあまりにも可愛そう…

惨たらしくて美しい作品です。

ゆとりらYOGA

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