「虐殺のスイッチ 一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか?」(読書感想)
著者は、ドキュメンタリー映画監督の、森達也氏。
この方の作品は、オウム真理教の内部を描いた「A」と「A2」を公開時に観て、逮捕されなかった一般の出家信者たちの生活や言動が何とも面白くて(松本サリン事件で濡れ衣を着せられた河野義行氏のところに謝罪に行く様子なども入ってるので、面白いというのも不謹慎なんですが…)。
去年、オウムの13人の死刑が執行される前には、この森氏が中心となって「オウム事件真相究明の会」が立ち上がりました。でも数か月で解散してしまっています。
Twitter等で見る限り、究明の会というより、死刑反対の会、のような気がしました。いずれにしても、死刑執行されてしまったら真相の究明はそこから先に進むのが困難なので、解散は仕方なかったんじゃないかな。
この本は、去年の10月に出ているので、そのあたりのことが書いてあるかなと思ったんですが、その記述はゼロ。
ですが、森氏がなぜ、オウム真理教を撮ることになったのか、あの事件をきっかけに、どういう方向に舵を切っていったのか、が良く分かる内容です。
で、タイトル通り、オウムだけでなく、カンボジアのクメール・ルージュや、ナチスのホロコースト、ルワンダの虐殺などを挙げて、「虐殺のプロセスとシステム」をじっくり語ってくれます。
虐殺というと、今、日本にいる私たちには直接は何の関係もない、と思われるかもしれませんが、例えばいじめは精神的な虐殺ですよね。子どもや老親への虐待も。
肉体的な命まで奪ってしまうことはなくても、そこに至る前の事例は誰しも経験があるのでは?
人はなぜ信仰を持つのか。宗教にすがるのか。その理由を僕は、人は自分が死ぬことを知ってしまった生き物だから、といまは考えている。イルカやチンパンジーは他者が死ぬことはわかっていても、自分が死ぬことは知らない。なぜなら体験したことがないからだ。
大脳の発達とともに演繹的な発想を獲得したからこそ、人は生き物で唯一、自分が死ぬことを知ってしまった。自分はやがてこの世界から消える。存在しなくなる。愛し愛される人たちと永遠に会えなくなる。(P58「3 オウムと出会って僕は変わった」)
彼らは悪。そして我々は正義。互いにそう主張する。確かにそう規定したほうが楽だ。余計な煩悶をせずに済む。黒か白。善か悪。とても単純だ。
しかし、世界がもっと複雑であることを、僕たちは感覚的に知っている。木の幹は茶一色ではない。葉も緑一色ではない。夕暮れの海面にはあらゆる色がプリズムのように反射している。世界は多面的で多重的だ。グレイゾーンやグラデーションで成り立っている。(P65「3 オウムと出会って僕は変わった」)
人は、一人では生きてゆけない。社会的な生きものとして、ここまで進化してきた。今さら樹上生活していた四五〇万年前には戻れない。生きるためには共同体=集団に属する必要がある。それ自体は間違いではない。良いも悪いもない。
だが、名前を付けやすく、非日常的で、大きなもの、すなわち国家とか宗教とか思想などといった共同体に属したとき、人は個をなくしかける。これが危険なのだ。意識下で隷従する。自発的なのに自覚がない。ならば暴走まではもうすぐだ。
歴史を知ること。今の位置を自覚すること。後ろめたさを引きずること。自分の加害性を忘れないこと。(P217「10 虐殺のスイッチを探る」)
最後の「後ろめたさを引きずること。」というのは、すごく良く分るし、森氏らしい表現だなと思います。
引きずる、って言葉は、何でも引きずりがちでうつ傾向の強い人には酷かも。
でもニュアンスとしてはこの通り、って思う。単純に「忘れない」とか「いつでも思ってる」とかというのとはちょっと違う気がするんですよね。
引きずる。
そしていつしか引きずってることを忘れてしまっている。
でもふとした拍子に、引きずり続けてぼろっちくなってるその感情を思い出す。
どんどんぼろくなりながらもその感情が消えることはない。
ぼろくはなるけどゼロにはならない。
逆に余計な記憶の肉付けもされない。
歳を重ねるごとに、そんなふうに引きずる感情が多くなる気がしています。
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