インド・ガナガンガ紀行 ⑥
ガナガンガでの聖典学習は、
★ヨーガ・スートラ 1章32節~41節
★バガヴァッド・ギーター 2章13節~21節
声を出して繰り返し朗誦、それからサンスクリット語・英語・日本語の解説の後、師匠の講話があり、ヴェーダ瞑想へと雪崩れ込みますw
各節毎にこの流れ。
瞑想の後は2人1組で気づきをシェア。その後もう1回瞑想という時もしばしば…
私は以前からこの瞑想後のシェアタイムがめっちゃ苦手で(。>д<。)
1人3分くらいの持ち時間で、目の前の人だけに話す時間なんですが、それでも緊張するし話纏まらないし、何より、自分の経験をよそ様に話すことになるのですごく抵抗があったんですよ…
でも今回は集中修行中とにかくこの繰り返し!後半にはだいぶ慣れてきました。
そして終わって気づいたことは、言語化そのものではなく、そこに至るまでの思考のまとめ方の訓練ということ。
話纏まらないから嫌、っていうのは単に練習が足りていないんだ、と妙に納得。
例えばこの1節
Bhagavad Gita Ⅱー17
avināśi tu tad viddhi yena sarvam idaṁ tatam
vināśam avyayasyāsya na kaś cit kartum arhati
バガヴァッド・ギーター 第2章17節
一切万有にあまねく充満しているものは
決して傷つかず 壊されもしない
たとえ如何なる人でも 方法でも
不滅の魂を破壊することはできない
この世界(俗世)は変化するものだが、そんな世界は普遍的(←不変的を含む)なものが支えている。
例えば、今自分が直面している問題は泡のようなもの。一時的な悩みに過ぎない。
視野を広く持ち、不滅の魂のもとに繰り広げられている自分の人生を生きるべきである。
…瞑想で、自分の過去の記憶を辿って調べます。
出てくる出てくる∞∞∞
あの時、悩んだり苦しんでいたりしたことも、過ぎてしまえばただの思い出であり、むしろ、アレがあったから今があるのだと思える。
しかし当時は泣いてばっかりだったなあ。
あの時に「一切万有にあまねく充満しているもの」の存在を知っていたら、もう少し上手に対処できたのかも。
でもあの時の苦しみも全部ひっくるめて自分の人生なのだ。
・・・・・・・・・・・・
アサナと呼吸法は、ガンジス川の中州、宿舎の屋上で朝日や夕日を見ながら、ホールで静かに…と、場所を変えて、朝晩行いました。
特に朝日に向かって自分のペースで行う太陽礼拝は最高でした!
とっても小さなチーム(引率の先生や現地でお世話してくださった方を含めても10人以下)での修行会でしたので、食事やティータイムが自然とサットサンガに。
↑この時は食事中に停電になったので、簡易オイルランプを置いて頂きました。
普段は遠くから見ているだけの師匠とお皿を回し合って食事ができるのは幸せな時間でした。
YOGAの修行だけでなく、こういう食事時間や、共同生活の中の小さなやり取りから学ばせて頂くことが本当にたくさんありました。
小さい頃から学校も勉強も大キライだったけど…でもこの歳になって、尊敬できる師や、たくさんの先輩がいる!もっと学びたいと思う。
嫌で嫌で仕方なかったあの頃は、普遍的な世界の泡沫に過ぎなかったのだなあ…と、こういう時、Gitaの2章17節の智慧が役立つとo(^-^)o
喜びを噛みしめっぱなしの10日間でした。
そうそう、デリーに戻ってから最終日に再び、デリー・ヨーガ・ニケタンにお邪魔したのですが、何と有難いことに、師匠のもと、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ大師のお部屋で15分間ほど瞑想をさせて頂いたことが、最後のハイライトになりました。
一時的に体調を壊したこと以外にも、「!」と思うことがいっぱいあって…でも、すべては師匠と大師様を通して、「不滅の魂」からの啓示だったのだと実感する15分でした。
ご一緒した皆さん、快く送り出してくれた家族にも、感謝。
次回はおまけです。
もうすこーしだけ
つづく
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