「復活」(読書感想)

コロナ禍のおかげ、という訳でもないのですが…いや、やっぱりおかげかなあ…あるきっかけで、ロシアの文豪トルストイ作の「復活」を読みました。


トルストイ作品は、今まで短編しか読んだことがなく、「アンナ・カレーニナ」も「戦争と平和」も勿論未読。

今回、これ読んでみよう!と思ったのは、この動画を見たから。

漫才師の米粒写経の「ガラパゴスイッチ」というライブでのコーナー。

2人ともすっごいオタクで聴いてるだけで楽しいんだけど、ゲストの小山正氏という方は、日本テレビ勤務でミステリーの超愛好家でもあるそうです。この動画の最後に、タイトルの「破天荒なミステリ」のオチとして紹介していたのが、トルストイの「復活」。

この小山氏のプレゼンが凄く興味深かったので、思わず上下巻図書館で借りてしまいました!

んで、めっちゃ面白かった!特に前半は、法廷劇がメインでぐいぐい読める!後半は、他の短編でも描かれる、トルストイの「信仰心」「道徳心」ががっつり前面に出ていて、何とも壮大な展開に…

《そうだ、そうだ》彼は思った。《われわれの人生になっているもの、その営み全体、その意味全体がおれにはわからないし、わかるはずがないのだ―何のために叔母が存在したのか?何のために、ニコーレニカ・イルテーネフは死んだのに、おれは生きているのか?何のためにカチューシャが存在したのか?それに、あのおれの狂気じみた行いは?何のためにあの戦争が起こったのか?また、その後に続いたおれのはずれた生活全体は?こんなことを残らず理解するのは、主の事業を理解するのは―おれの力に余ることだ。だが、おれの良心に書きつけられている主の意志をおこなうことなら―おれの力でできる、しかも、それをおれは疑いなく知っている。それに、その意志をおこなっているときには、疑いなく心が安らかなのだ》(P16 第2編-8)

「おれの良心に書きつけられている主の意志」を見つけ出すことって、並大抵の努力ではできないと思うんだけど…見つけ出して、更に「おこなうことなら―おれの力でできる、しかも、それをおれは疑いなく知っている。」!

主人公のネフリュードフは物凄い貴族の公爵で、物質的苦労は皆無の中年男性なんだけど、それなのに、というか、だからなのか、というか、こんな風に理智がきちんと働いていて確信が持てていることが本当に素晴らしい…ため息が出ました( ´¬`)


 この三カ月の間、彼は何度か自分に問いかけた。《ほかの者に見えないものが見えるとしたら、気が狂っているのはおれなのか、それとも、気が狂っているのは、おれが見ているようなことをしている連中なのか?》ところが、その連中は(しかもその数はずいぶん多かった)ネフリュードフをひどく驚かせ、震え上がらせるようなことをやりながら、それが必要なだけでなく、自分たちのやっていることは実に重要、有益な仕事だと、平然と信じきっていたので、この連中をのこらず狂人だと認めるのは難しかった。一方、自分の頭がはっきりしているのを意識していたので、彼は自分自身を狂人だと認めることはできなかった。それで、いつも納得できずにいた。(P393~394 第3編-19)

多かれ少なかれ、誰もがこういう感覚を持った経験があるのではないでしょうか。

結局、自分がおかしいのか真っ当なのか、を周りとの相対値で考えると頭がぐるぐるしてくるんよね…ましてや自分が(ある部分において)マイノリティだと自覚している場合は、時と場合によっては自己否定にまで至ってしまう…二極の対立を超えるマインドを持ちたい。


 そして、ネフリュードフは精神的に生きている人々がよく体験するようなことを体験した。はじめのうち、奇妙なことのように、逆説のように、それどころか冗談のように思えた考えが、次第次第に頻繁に現実の中に裏づけを見出し、急にこの上もなく単純な疑う余地のない真理となって立ち現れる、という体験をしたのだった。人々を苦しめているおそろしい悪から救われる唯一の、しかも確実な手段は、人々が自分は神の前では常に罪深いものであり、したがって、ほかの人間を罰することも矯正することもできない、と認めることだけに尽きるのだという考えが、今ネフリュードフには明らかになった。彼が監獄や拘置所で目撃者となったありとあらゆるおそろしい悪と、その悪をおこなっている人々の落ち着き払った自信は、ただただ、人々が悪人でいながら、悪を矯正しようという、できもしないことをしようとしているために生じているのだった―今やそれがネフリュードフには明らかになった。(P457~458 第3編-28)

《あなたたちは数世紀の間、自分たちが犯罪者と見なす人間を罰していますね。どうです、犯罪者はなくなりましたか?なくなりませんね、いや、その数は増えただけですね、刑罰で堕落させられている犯罪者によって、おまけに、すわったままで、人を罰している裁判官、検事、予審判事、看守などという犯罪者によって》今、ネフリュードフはさとった―一般に社会や秩序が存在しているのは、他人を裁き罰しているこのような合法的犯罪者がいるおかげではなく、このような堕落にもめげず、人々がおたがいにあわれみあい、愛し合っているおかげなのだと。(P459 第3編-28)

これは政治的な事象を描きながら、そして「人々が自分は神の前では常に罪深いもの」とは言っているものの、私は、人間の根源的な善を肯定する高潔な描写だと思いました。

理想論かもしれないけど、理想がなければ何を目印に進めばいいのか分からないもんね。

神との繋がりについては、ほんの小さなエピソードに出てくる、小さくて髪がぼさぼさな老人が放つ言葉が痛快。


「お前は自分のことをやってろ、ほかの者は勝手にさせとけ。誰でも自分は自分のためにいるんだぞ。誰を罰して、誰をゆるすか、神さまがご存じだ、知ってるのはおれたちじゃねえ」老人は言った。「自分が自分の上に立て、そうすりゃ上に立つやつなんかいらねえ。帰れ、帰れ」(P450 第3編-27)

これは、自粛警察の皆さんに読んでもらいたい…(`ω´)

こちらは短編。読みやすいです。

ゆとりらYOGA

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