アサナの美しさについて
先日、うちこさんのレッスンに出て、自分の弱点や今後の課題とかあれこれ感じたわけですが。
自分の仕事=YOGAの伝え手として、いつも試行錯誤していることの中に「『アサナの美しさ』をどういう言葉で表現するか」というのがあります。
ついつい「とても綺麗ですよ~」とか「良いですね~」みたいな言葉に頼ってしまいがちなんですが、「綺麗」も「良い」も物凄く大雑把でどうにでも受け取れる言葉ですよね。
・・・これは、どういった言葉も、そこに込められる心、というか熱量によって、その濃度や伝わり方が著しく変わる、というロジックにもしゃもしゃと没入していくんですが・・・それはそれでめんどくさいんで、今はとりあえず没入前の話ヾ(●゚ⅴ゚)ノ
YOGAをやる人は、たいてい、アサナをやるなら出来るだけ「美しい」=映像や本に載っているような、柔らかくてしなやかなポーズを作りたいと思うでしょう。
そして、いざ自分がそのアサナを作ってみると、全然曲がらない、とか、手がつかない、足がつかめない、等々でガックリくる・・・凹む・・・身体が硬いからうまくいかないわ・・・YOGA向いてないわ・・・って流れになりません?なりますよね?
でもそれって巷に出回ってるYOGAのビジュアルが「美しい」という認識だから、それと比べて自分はあんな風にうまくいかない・・・という「二極の対立」から来る感情です。
美醜とか貧富とか・・・えーっと、他には高低、大小、勝ち負け、その他いろいろ。
要は、他者を基準とすることで、それと比較して自分はどうか、と価値を決めること。
でもこれってなかなかしんどいですね。
自分基準じゃなくて、他者基準だと、自分の価値がブレッブレになりますね。
自分はAさんより背が高くBさんより低い。
くらいなら、それはそうだ見たまんまだ、ということになりますが、
自分はCさんよりお金持ちでDさんよりは貧乏だ。
もうちょっと捻じれてくると
自分の子どもはEさんの子どもより成績が良いがFさんの子どもより成績が悪い。
あたりになってくると、じゃあこの比較で1番良いのは結局誰なんだ、ってことになってくる。
で、こんなふうに「二極の対立」の感情が心にあると、常に、
他者と比べて自分はどうなのか?
自分は誰に対して優越感を持てて、誰に対して劣等感を抱くのか?
というような、他者に振り回される自分、になってしまう。
これはしんどい。
話が大幅にカーブしましたので「アサナの美しさ」に戻ります。
要は「美しさ」の意味は定義しきれないのです。
誘導させて頂いていて、股関節が硬くても、腰が伸びていなくても「美しいアサナ」を作る方はた~くさんいらっしゃいます。本当です。
美しいアサナには「無理な頑張り」や「見栄」がありません。
周りを気にせず、その場には自分しかいないようなゆったりとした空気を纏い、そして、自分の呼吸を大切に意識している方は、常に、美しいアサナを作っています。
美しいアサナを作ってる方は本当に気持ち良さそうです!
ですから、レッスンの時いつも「周りと動きを合わせるのではなく、自分の呼吸と自分の動きを合わせてみて下さい」とお話しています。
長く通って下さってる方には耳タコでしょうけど、私自身もレッスンを受ける立場になると、周りと比べ、恥ずかしいと思ったり負けまいと思う気持ちが湧いてしまいます。
私自身に言い聞かせるために、そして根付かせるために毎回毎回同じことを言わせて頂いています。
ただ寝てるだけのように見えるシャバアサナも、美しい!
周りが見えないから、自分だけと向き合うから美しいのでしょう。
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