映画「もうろうをいきる」を観ました。
映画館で予告編を観て魅かれました。
関西では、第七藝術劇場、シアターセブンと順次公開だったのですが、その時はどうしても都合がつかなくて。
もう無理かな・・・と思っていたところ、神戸の元町映画館でやってくれまして、観てきました!
目が見えず、耳が聞こえない人のことを盲ろう者と言います。
私は、音訳のボランティアをやっている関係で、盲者の方とは接したことがありますが、ろう者の方とお話したことはありません。
気の毒な方々、と思うのは大変失礼で不躾だとは承知していますが、でも、正直そういう印象を持っていました。
さぞかし生き辛く、孤独な生活だろうと。
この映画では、数人の盲ろう者の方の日々の営みが、ゆったりと静かに綴られています。
当然のことながら、具体的なサポートがなければ生きていけない人もいます。
でも、映画を観ながら、皆さんの悩みや苦しみは、見える聞こえる私達とあまり大差ないのでは?と思う瞬間もありました。
例えば
私達は、いつの頃からか、他人に迷惑をかけることは悪であり、他人を頼ることは自分の弱さを認める、恥ずかしいこと、というような妙なモラルに縛られているのではないだろうか。
とか
周りの皆からはみ出さないように、悪目立ちしないように、と怯える心が、結果的に、この世界をとても小さく、居心地の悪いものにしているのではないだろうか。
とか、そういったことです。
見えない、聞こえない人達は、確かに大きなハンデを背負ってはいるけれど、背負いながらも生きていくだけの強さを持っていて、その強さは、見える聞こえる私達には到底及ばない強さなのだと思います。
実際、登場する皆さんは、たくさん泣いて苦しんで、全てを受け入れて今がある、ということをこちらに教えてくれます。
出演者の1人の若い女性。
進行性の弱視でろうの方ですが、東京で一人暮らしをしていて、歌舞伎や能などを観るのが大好き。
神保町の古本屋で昔の資料を漁り、観劇の記録や感想をノートにびっしり書いている。
(私が若い頃通った、演劇や映画書籍の専門古書店の「矢口書店」が映ってて、それを観ただけで涙が・・・!)
いつか見えなくなる日が来るまで、出来るだけたくさん観劇し、本を読みたいと。
この方のパートは、見たり読んだりが大好きな自分としては、本当に胸に刺さりました。
人は誰でも、老いて衰えていくけれど、そのことを常に意識して生きている人はそう多くない。
だけど、進行性の病を持った人は、そしてそれが五官が直接的に失われていくような病だと、自分の大事な一部分が確実に喪失する恐怖と日々闘わなくてはいけません。そんな闘い、自分に出来るだろうか・・・。
あたりまえがあたりまえでない世界と、あたりまえをあたりまえと勘違いしてしまう怖さを教えてもらいました。
神戸の上映はもう終わってしまいましたが、この先は各地で自主上映があるみたいです!
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