子どもと生きるということ
今月の北名次レッスンは、照明を落として(日当たりの良い部屋で、カーテンもリネンなので、今月だけ窓を布で覆ってます)、キャンドルをいくつか灯して、静かな雰囲気の中で行っています。
さて、タイトルの件ですが。
今年の春から息子が中学生になり、彼が日に日に真っ当な成長を遂げる様子を目の当たりにしています。
真っ当とか書きましたけど、要は思春期の入口。反抗期と言われる時代に突入してるんですね。
こちらが大声で怒鳴ったり、なんじゃかんじゃと言葉で説得しても「がん!」として動かないお年頃。
ついに来たか、と思いますし、よしよしもがいているなしんどいだろうながんばれよ、とも思います。
そして、自分はこの時期どんなだったろうか・・・と、大昔に思いを馳せます。
私はとにかく、大変に「めんどくさい子」で、親への反抗心を全く隠すことなく、かなり長い期間、反抗期を謳歌(!)した記憶があるんですね。
学校も休みがちだったし成績は極悪だったし・・・なのに何であんなに偉そうにしていられたのか、ほんと、タイムマシンがあったらあの頃の自分を殴りに行きたいヽ(`⌒´)ノ
で、自分の子どもに思いを戻してみると・・・
まったく同じ、とまではいかなくても、彼もかなり近い道筋を辿っていることに気づきます。
なにか1つが嫌になると、それだけで他のことすべてが嫌になり、まるで繭をつくるように部屋をゴミで満たしそこに何時間でも籠る・・・
そして、本に逃げ込んで、むさぼるように読んで、読んで読んで読んで、そこから何かに気づく・・・
君もそんな風に成長していくのか!と、かあちゃんは心配しながらも安心しています。
で、子どもと暮らす、子どもと生きる、ということを改めて考えてみると、
昨今の雑誌やネットに踊る「子育てはワクワク楽しい!」「仕事も子育ても楽しみながら両立!」みたいなワードは、諸刃の刃、というか、ちょっと意味わかんない、的な違和感を感じるんですよね。
そもそも、子育ては(というか、仕事も、というか生きていくということそのものが)、決して「楽しい」ものではないと私は思っています。
「楽しい」の見解の相違でしょ、と言われればそれまでなんですがヾ(゚д゚)ノ゛
息子が赤ん坊~幼児の頃を思い出してみると、今はもう「あの頃は小っちゃくてとてとてしてて超可愛かった!」しかないんですよね。
でも当時の私はどうだったかというと、彼に時間を取られ(てる気がして)翻弄され(てる気がして)始終イライラしてたように思います。
だからと言って、現在子育て真っ只中のママに「しんどいのは今だけよ~この時期が過ぎたら懐かしく思い出すわよ~」と言ってもね・・・
「でも、この『今』がしんどいんです!何とかしたいんです!」と言いたい方も多いでしょうね。
で、
子育ては楽しいものではない、という前提をここで
子育てを楽しいと思う瞬間は、
子どものまじりっ気なしの笑顔であったり
母親である自分に、その子のやり方で甘えてくる瞬間であったり
ふと「何だか昨日より大きくなってる?」と気づかされる時であったり、
それだけでじゅうぶん。
あとは基本、しんどくてもどかしくて悩まされることばかりだと思う方が良いです(厳密に言うとこのような辛さは別に子どもからもたらされるのではなく、母親が勝手に感じるだけのことです)。
そして、
子どもを、自分の思い通りに動かそうと思うと、必ずや失敗します。
これは母の思い通りに育たなかった私の経験であり、子どもに自分の感情を押し付けて今も失敗更新中の私の日々から思うことです。
子どもだけではなく、他者を自分の思い通りに動かすことは不可能です。
ですが、自分が自分の思索と判断で動くことは可能です。
そして、自分が動くことで他者が動いてくれる・・・ということも可能性としてはアリです(但しそこへの期待ありきで動くことはナシです。難しいね)。
そう考えると、子どもを何とかしようと思って思い悩み奔走することはとても不毛なことなんだな、と思います。
YOGAの八支則の五番目に、プラティヤハーラ(制感)という教えがあります。
これは
心を悩ませ不安を与える対象(外界内界におけるあらゆる事象)から、一旦心を引き離し
「何ものにもとらわれない自由な心」に至るための行
具体的には、瞑想や、何か無心になれる事への集中、などがあります。
大きな呼吸で、ほんの短い時間でも、子どもから意識を外し自分自身を見つめる
そして
誰かを動かすより自分が動く
とても難しいけれど、子どもにも(他者にも)、そして自分自身にもいつも誠実な自分でありたいと思っています。
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