映画「A」「A2」一気観感想
先日観た「FAKE」の監督、森達也氏の代表作「A」と「A2」が大阪で特集上映されてまして、一気に観てきました。
「A」(1998)「A2」(2001)とも公開時に観て、どちらもすごく面白かった~!
オウム真理教の内側や、信者と警察や地域住民との関係が、TVのワイドショーとはまったく違う映像になってて、視点によってこうも見え方が違うのか!?と驚いたし、切り取られた映像ってやっぱ信用できないなあ~と思った覚えがあります。
で、あれから15年経って、その間に私は母親になったりYOGAを仕事にしたりと、あの頃とは立場も思想も大きく変わっている。
今この作品を観たらどう感じるんだろう?と自分に対する好奇心いっぱいで鑑賞したのですが・・・
いや~やっぱりめちゃくちゃ面白かったです!
オウムが起こした事件があまりに大きいので、面白いっていうのは不謹慎とは思うんですが・・・
でも、こちらに放り投げてくるモノがものすごく大きいので、受け止めて捏ね繰り回して反芻する作業がやめられません。
彼等の宗教観、死生観が一般社会の人達とは違う、っていうのはもちろん分かってますけど、でも信者だって生身の人間だから一般社会と交わらないと物理的に生きていけない。だけど自分達を俗世よりも位の高い生き物だと思い込んでいるから(悪意のないところが余計めんどくさい)、そこで齟齬が起こる。
でもその齟齬が、コントかよってくらい茶番だったり一方通行だったりするから、こりゃあ根深いわ・・・と思いつつも声をあげて笑ってしまう。
とにかく彼らには一般常識とか機微みたいなものが一切通じない。
根本的な部分での感謝も多分ない。働かずにお経唱えたりヘッドギアに電流流してるだけで暮らしていけることへの感謝がない。
親を顧みないっていうのも産んでもらって有難うという気持ちはないんでしょうね。
自分が着てるサマナ服とやらだって何人もの手がかかってるとか思わないんでしょうね。
まあそれは若いうちは思わないか・・・
あるのは尊師への崇拝と妄信のみ。そして外部から何を言われても、この試練は尊師が与えて下さったもの、自分は試されている、という思考の帰結。
これは楽だろうなあ!と思います。
日々の生活の細かな迷いや面倒事を一切すっ飛ばして、修行だけする生活って楽そうだ!
でも、彼等が、例えば教団が起こしたようなテロ行為で、自身が死んでしまうとしたら、逝く瞬間「ポアされる自分は幸せだ」と思えるのかどうか。
苦しまずに死んでいけるのかどうか。
今も残っている人達に聞いてみたい気がします。
私は自分なりに、オウム真理教っていう団体が何故今も(名前は変わってるけど)生き続けているのかの答えを持っていますが、この先、過激なテロ行為に走る可能性については正直解らない。
でも13人の死刑はまだ1人も執行されていなくて、これが動いた時に、教団側も大きく動くんじゃないかという気はします。
そして、オウムみたいな場所に、今でも若い人が行くのは、洗脳とかマインドコントロールとは違うと思うんですよね。それは入った後のことで、最初は自発的にそこに向かう訳です。
そこに向かうまでのプロセスを思うと、親になった今、ちょっとブルっと来ます・・・
現実が辛い、現実と向き合うのが嫌だ、と思わせてしまう大人の罪がもっと問われるべきなんじゃないかと思います。
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