インド・YOGA集中修行の旅③
バラタ・ヨーガニケタンの屋上から見えたお隣の子ども達。興味津々でこっちを見ていました!
短い滞在期間で感じたことは、とにかくインドの人達は、大人も子どもも非常に人間臭い。
この写真は、子ども達がわ~っと寄ってきてくれたので皆で写真撮ってたら通りすがりのおっちゃんが「なんやなんやー!?」とUターンしてきたところ(ちなみにこの直後、野菜を積んだ荷車も写真にぐいぐい入ってきたww)
私達のような「珍しいもの」を見る時の目に遠慮がないというか、好奇心いっぱいで凝視してくる。圧倒されます。超あけっぴろげ!
でも、ある種の懐かしさを感じました・・・私も幼い頃は(こっちの人ほどじゃないけど)汚くてうるさくて無遠慮だったなあ、と。それってすごく自由だったなあ、と。
今回の修行は、ラージャ・ヨガ(ヨーガの王道)を学ぶ旅でした。
王道とは、瞑想・アサナ・聖典の勉強です。
師匠は「師資相承」という言葉を引いて、私達に様々なYOGAの智慧を教えて下さいます。
私たちは、何を持っているのか?何を持っていないのか?
記憶は全部過去のものだという認識はあるか?
記憶を止滅させること=客観視は出来ているか?
ガンジス河での瞑想
夜明け前に渡し船で、川の中州へと渡ります。
インドのこの時期は乾季で、日中は25℃前後あるのですが、朝と晩はびっくりするほど寒い。ダウンが必要なほどでした。
暗い中、皆でビニールシートを敷き、各自、毛布の上で安定座を作ります。
そしてマントラ(真言)の後、1時間の瞑想。
※以下、少々ヘビィな話になりますので、ご興味ない方は明日以降またいらっしゃって下さい!
(*゚∀゚)っ[.+:。★βyё βyё★.+:。]
今回の旅で、私は、自分の内面とがっつり向き合う必要性を感じていました。そんな気持ちになったことには理由はなく、ただ、自分は自分の中により深くコミットしなければ、この先に進めない・・・という漠然とした思いだけがあったのですが。
実は(以前にもちらっと書いたかもしれません)、私は、30年以上も前のことですが、傷害事件の被害者になった経験がありまして(見知らぬ男性からスパナで頭と肩を殴打されました。犯人は捕まらず迷宮入り)。
頭部陥没骨折で、50針以上縫う大怪我を負いました。
十代の多感な頃でしたし、もちろん心も傷付きました。
が。
若いって素晴らしいヾ(●゚ⅴ゚)ノ
身体の傷が癒えると、割と短い期間で心も立ち直って、幸い後遺症も出ず、すっかり普通の生活ができるようになりました。
そして大学行ったり遊んだりバイトしたり就職したり結婚したり遊んだり離婚したり遊んだり遊んだり・・・まあいろいろ、殆ど遊んで過ごしまして。
再婚も出産も経験して、「昔は怖い目にも遭ったけど、人並みに幸せになれたし人生の帳尻もあった。良かった良かった。」みたいな気持ちでいたんですが。
が。
が!
夜明けのガンガーで瞑想をしながら、それは大いなる勘違いだと気づかされました。
私は、「すっかり立ち直って、当時の体験を乗り越えた」フリをしていただけでした。
乗り越えるどころか、きちんと向き合ってもおらず、ただただ、なかったことにしたいと記憶に蓋をしていただけだと気づきました。
思えば当時からそうでした。
こんなことくらいで自分の人生がダメになってたまるか、と、とにかく、この体験に押しつぶされてしまうことだけを怖れて、とっとと「もう全然大丈夫!」なフリをしていたのでした。
でもそれって、記憶の止滅=客観視、とは真逆のところにフラグが立ってますよね。
だって客観視どころか見てもいないんだもの。
30数年経って、今まで目を背けていた過去と真っ向から対峙する時が来てしまったわけです。
もう逃げられない。
ここで逃げたら、逃げたという記憶だけが苦く残るし、何より、モノやヒトではなく自身の記憶からはどうやったって逃げようがないのです。
逃げたという記憶を抱えて生きていくか。
腹を括って、あの時の棚卸をして納得してから前に進むか。
(しかし・・・私には棚卸をしないままほったらかしてある記憶が多いのですよ。だからここで1つ卸して納得しても、また次のもそのまた次のもあるんです・・・)
という感じで、ガンジス河、および、アシュラムで、私は大泣きしながら(心の中で)のた打ち回る羽目になりました。
誤解して頂きたくないのですが、私は、過去の経験の「恐怖」や「被害に遭った不幸」を思い出す必然を感じたわけではないのです。
「今」があるのは、「今」に至るすべての経験があったからであって、その中の、特定の出来事の記憶に蓋をしてしまうのは「今」を生きる自分に対してフェアじゃない、と思ったのです。
つづく(次回はもうちょっと明るくいきます!たぶんヾ(・∀・)ノ)
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