疑うことと信じることについて
ステイホーム中、物凄い勢いで「オンライン授業」が広まり、私もYOGAレッスンに取り入れましたが、同時に、自分が受講者として参加する機会が一気に増えました。
特に、インド哲学の学びは、5月15日のブログでもふれたように、週末ごとに複数のクラスが重なりまして、お陰で、ウィークデーは仕事、週末は自身の学び、とすごく良いリズムがつきました。
インド哲学というのは結構ざっくりした括りでして、私がここ数年学んでいるのは
「ヴェーダーンタ」です。
ヒンドゥー教の教えで、お祈りやマントラ(仏教でいうお経のような歌)を唱えたり、長時間瞑想をしたり…という、傍から見たらかなり宗教的な行為もありますし、勉強というのは主に聖典(キリスト教でいう聖書、イスラム教でいうコーラン)を音読したり黙読したり、それから、インドの高僧の方の講話を聴いたり、インドのアシュラム(修行場)で長く学んできた方から講義を受けたり、というもの。
YOGAを知る前の私は、世代的にバブルのしっぽを経験していて、当時の狂乱に、時々は乗っかり、時々は「こんなのおかしいよね…」と思い、でもまあいいか!ごちそうさま!とやっぱり乗っかる、ブレまくりの若者でした。
そうこうしているうちに、「ん?これは…ひょっとして…私このままの価値観で生きて行ったら将来大変なことになるかも」と思うような経験がいくつかあり、その途中でYOGAに出会い、ヴェーダーンタに出会いました。
※YOGAをやっている人や講師の人が、皆インド哲学やヴェーダーンタを学んでいるかというと、そんなことはありません。講師にもそれぞれ得意分野があり、身体の動きに長けていて美容や健康維持に詳しい人もいれば、疾患を持っている人向けの体操指導が得意な人、マントラやキルタンなどの歌をたくさん知っている人、等、本当に様々です。
で、ここからやっとタイトルの話になりますが。
ヴェーダの教えを初めて聴いた時は「はあ?」と思い、まあ解らんこともないけど(←えらそう)、でも今この歳になってそんな風に考えることって意味あるの?と、とっても懐疑的でした。
だけど、何事もそうだけど、知ってしまうと、もう知らなかった頃には戻れない。
そして私の場合、懐疑的ではあっても忘れることが出来なくて、もうちょっと聴いてみるか…読んでみようか…とずぶずぶ嵌ってしまいまして^^;
その理由の一つに、ヴェーダーンタを教えてくれる人達が共通して語る言葉があります。
「私の言うことを盲目的に信じてはいけません。
自分でしっかり考えて少しでも疑問があったら質問をして下さい。
ヴェーダーンタは論理的なものです。」
闇雲に、これをやったら願いが叶うとか、あれを買えば幸せが来る、というものとは全く違うということ。
祈ることも唱えることも聖典を読むことも、そしてもちろん体操(アサナの練習)をすることも、すべて意味があり目的があるということ。
普段の生活の中でも、自分の言動や周りの事象の、本当の意味、本当の目的を見誤ると、生きていくのがなかなかしんどい。
じゃあ見誤らないようにするにはどうするのか、本当のことを知るにはどうしたらいいのか。
これを知るために私はヴェーダーンタを学んでいるのだと思います。
疑って立ち止まって、読んだり聴いたりして、納得して、また立ち止まる、の繰り返しで、わずかに進んだと思うと大きく後退する時もあって厳しい道ですが。
疑問を感じて、確認したり、場合によっては暫く距離を置いたり、単純に怠けちゃったり…そんなことをしながらも何とか続けていられるのは、
ちゃんと疑うこと
盲信しないこと
自分の頭で考えること
を、先生たちがきちんと教えて下さったから。
そしてその考えは今回のコロナ騒動の時にも物凄く役に立ちました。
溢れかえる情報に踊らされそうになったり、目の前にある非日常(家族が毎日家にいるとか)に脊髄反射的に感情をぶつけたり…そういったことが、ゼロではないけど、かなり避けることができたと思っています。
何を疑い、何を信じるか、という見極めも自分なりに出来るようになってきたと感じています(「直観力」ってこういうことかな、と思うような)。
ヴェーダーンタは、単なる学問ではなく、実生活、というか人生のサポートをしてくれる素晴らしい教えです。
…という訳で、肝心のヴェーダーンタはどのような教えなのか、ということは、今までもこれからも、レッスンやブログでお伝えし続けたいと思います!
現在、毎週日曜日の午後2時から4時まで、日本ヴェーダーンタ協会の
スワミ・メーダサーナンダ師が講話をYouTubeで配信して下さっています。
優しい日本語でとても解りやすく、そして時々心にぐさりと刺さります。
私が敬愛する、慈愛に満ちたスワミジでいらっしゃいます。
過去の配信もあがっていますので、ご興味ある方は是非アクセスしてみて下さい。
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